記録室

大会開催期間概要
第1回大会1924(大正13)年4月1日〜4月5日1924年4月1日、名古屋市の山本球場に8校が集い、センバツが産声をあげた。決勝で早稲田実を零封した高松商が初代優勝校に。
第2回大会1925(大正14)年3月31日〜4月5日前年に完成した甲子園に舞台が移り、山下実(第一神港商)が2本塁打を記録。高松商の2連覇を同じ四国勢の松山商が阻んだ。
第3回大会1926(大正15)年3月29日〜4月5日第1回大会の2倍の16校が参加。同一地域の初戦対戦を避ける東西対抗形式がとられた大会の決勝は広陵中が松本商を大差で降し初優勝。
第4回大会1927(昭和2)年4月29日〜5月1日大正天皇の崩御により開催時期が遅れたほか、入場行進を中止。新企画で優勝チームを米国に派遣。米国切符は和歌山中が手に入れた。
第5回大会1928(昭和3)年3月30日〜4月5日熱戦の模様が初めて、NHK大阪放送局の電波に乗る。関西学院中が決勝で、5年連続出場の和歌山中を破って栄冠を手にした。
第6回大会1929(昭和4)年3月30日〜4月4日アルプス席が完成。陸上五輪代表の人見絹枝さんの考案で、校名プラカードの先導など新しい試みが採用され、第一神港商が制した。
第7回大会1930(昭和5)年3月30日〜4月5日大会史上初の2連覇を第一神港商が達成。岸本投手は得意のドロップを武器に54奪三振の大会記録で花を添えた。
第8回大会1931(昭和6)年4月1日〜4月8日わが国の球界史上初の背番号がお目見え。東久邇宮稔彦殿下が皇族で初の甲子園観戦。広島商が初優勝を果たした。
第9回大会1932(昭和7)年3月30日〜4月5日外野フェンスに歴代優勝校のプレートを掲げる。明石中の楠本投手が全員奪三振の快記録。しかし、決勝では松山商に惜敗。
第10回大会1933(昭和8)年3月30日〜4月13日10周年を記念して史上最多の32校が出場。岐阜商の松井が奪三振記録の好投手、楠本(明石中)に投げ勝って東海勢が初制覇。
第11回大会1934(昭和9)年3月28日〜4月7日新大会歌の「陽は舞いおどる甲子園」が誕生。2回戦の享栄商-徳山商は延長19回の熱闘。東邦商が初出場初優勝の離れ業を演じた。
第12回大会1935(昭和10)年3月28日〜4月7日校内の怪火発生などで浪華商が出場辞退第1号に。嘉義農林が台湾勢として最後の出場。松井投手の岐阜商が2回目の優勝。
第13回大会1936(昭和11)年3月29日〜4月6日愛知商が優勝して、東海勢が4年連続、頂点に立った。後の「打撃の神様」川上哲治が熊本工の選手で出場。
第14回大会1937(昭和12)年3月28日〜4月5日浪華商が村松投手の好投で、大阪に初の大旗をもたらした。1回戦で滝川中が浦和中を相手に27-0の大会最多得点を記録。
第15回大会1938(昭和13)年3月27日〜4月4日中京商が初優勝。野口投手は4試合連続完封。準々決勝の海草中戦では無安打無得点試合を達成した。
第16回大会1939(昭和14)年3月26日〜4月3日4強をいずれも東海勢が占め、東邦商が強力打線の活躍で優勝。総得点59、安打73、チーム打率3割5分8厘の猛打ぶりだった。
第17回大会1940(昭和15)年3月24日〜4月2日前年の決勝で東邦商に打ち込まれた岐阜商の大島投手が4試合連続完封の好投。大会2回目の全試合無失点の優勝を達成した。
第18回大会1941(昭和16)年3月23日〜3月28日東邦商が3回目の優勝を果たした。滝川中の別所投手は準々決勝で負傷し、延長14回の末、惜敗。「泣くな別所」とたたえられる。
第19回大会1947(昭和22)年3月30日〜4月7日戦争で5年の中断を経て、大会が再開された。徳島商-小倉中の決勝は延長13回の接戦の末、徳島商が競り勝ち、復活大会を制した。
第20回大会1948(昭和23)年4月1日〜4月6日学制改革で中等学校野球は高等学校野球に衣替え。決勝は京都勢同士の顔合わせとなり、京都一商にがい歌があがった。
第21回大会1949(昭和24)年4月1日〜4月6日友情の頭文字(F)をデザインした連盟旗ができた。優勝は近畿決戦に競り勝った北野。怪童の異名をとった中西(高松一)が登場。
第22回大会1950(昭和25)年4月2日〜4月8日韮山が戦後初の初出場初優勝の快挙。準々決勝で熊本工の柳沢が同点本塁打を放ったが、一塁ベースを踏み忘れてアウトに。
第23回大会1951(昭和26)年4月1日〜4月9日「うず潮打線」の鳴門が3試合連続逆転勝ちで初優勝。鳴尾の野武が静岡城内戦で史上5人目の無安打無得点試合を達成。
第24回大会1952(昭和27)年4月1日〜4月6日ジュラルミン製の銀さんが登場。ラジオ中継に新日本放送(現毎日放送)が参加。静岡商の田所が4試合すべて完封で優勝に貢献。
第25回大会1953(昭和28)年4月1日〜4月6日洲本が初出場初優勝。これまで甲子園出場校さえなかった淡路島に優勝旗を持ち帰った。開会式で初めて文相が始球式。
第26回大会1954(昭和29)年4月1日〜4月7日南アルプス山麓から初名乗りをあげた飯田長姫が「小さな大投手」光沢の好投で優勝。新日本放送が始めて全試合をラジオ中継。
第27回大会1955(昭和30)年4月2日〜4月8日準々決勝で今泉(桐生)が明星を相手に、史上6人目の無安打無得点試合。しかし、決勝では浪華商に打たれ、惜敗の準優勝。
第28回大会1956(昭和31)年4月1日〜4月9日中京商が岐阜商との「東海決戦」を制して戦後初優勝。中京商の1番・富田虎は準決勝、決勝で8打数連続安打の大会記録をマーク。
第29回大会1957(昭和32)年4月1日〜4月7日第2回大会から続いた優秀選手賞などの個人賞を廃止。左腕・王貞治を擁する早稲田実が優勝し、大旗は初めて箱根の山を越えた。
第30回大会1958(昭和33)年4月1日〜4月10日優勝旗は初めて関門海峡を渡った。済々黌が自慢の強打線で優勝。1回戦の坂出商-興国商は延長15回にもつれ込み、大会初のナイターに。
第31回大会1959(昭和34)年4月1日〜4月10日選手の健康管理を考慮し、延長戦は18回で打ち切りとなった。中京商が優勝を決めた4月10日、皇太子さま(現・天皇陛下)がご結婚。
第32回大会1960(昭和35)年4月1日〜4月8日大会史上初めて、沖縄から那覇が出場。秋田商の今川が74球の最小投球数を記録。決勝は高松商がサヨナラ勝ちで36年ぶりの栄冠。
第33回大会1961(昭和36)年3月29日〜4月5日前年夏の覇者、法政二が投打の立役者、柴田の活躍で夏春優勝。米国国会図書館から毎日新聞社に大会30年史の寄贈依頼。
第34回大会1962(昭和37)年3月29日〜4月7日作新学院が優勝して大旗は利根川を渡った。この年夏も制し、史上初の春夏制覇。開会式の入場行進に初めてバトントワラーが登場。
第35回大会1963(昭和38)年3月27日〜4月5日優勝旗を新調。剛腕・池永の下関商が新優勝旗を握った。PL学園の戸田た21奪三振。北海の谷木が1試合5盗塁の大会記録を樹立。
第36回大会1964(昭和39)年3月28日〜4月5日史上初の初陣同士の決勝は、現在プロゴルフで活躍するジャンボ尾崎の徳島海南にがい歌。東京五輪の年で、開会式に五輪旗も入場。
第37回大会1965(昭和40)年3月27日〜4月4日優勝した岡山東商の平松は39回無失点の大会記録をマーク。準優勝の市和歌山商・藤田はランニングとラッキーゾーンへの2本塁打を放つ。
第38回大会1966(昭和41)年3月26日〜4月3日NHKのカラー放送開始。中京商が春最多の4回目の優勝を果たし、夏も制して史上2回目の春夏連覇。部員12人の土佐が準優勝と健闘。
第39回大会1967(昭和42)年3月29日〜4月7日切り札のドロップを駆使した吉良の津久見が九州勢として2回目の優勝を果たす。市和歌山商の野上が史上8人目の無安打無得点試合。
第40回大会1968(昭和43)円3月28日〜4月6日大宮工が工業高として初の優勝。エース吉沢は発熱をおし、病院から球場に直行して力投した。星林が1回戦でチーム最多記録の12盗塁。
第41回大会1969(昭和44)年3月27日〜4月6日岐阜商の鍛冶舎が甲子園通算100号本塁打、浪商の上田は戦後初の満塁本塁打を放つ。三重が決勝史上最多得点を記録して初優勝。
第42回大会1970(昭和45)年3月27日〜4月5日箕島が史上5回目の近畿決戦を制し、43年ぶりに優勝旗を紀州路に運ぶ。エース島本は前年の太田(三沢)に続くアイドル人気を呼ぶ。
第43回大会1971(昭和46)年3月27日〜4月6日この年、沖縄返還協定が調印され、普天間が沖縄勢としてセンバツ初勝利。初の大阪・東京対決となった決勝は日大三が快勝。
第44回大会1972(昭和47)年3月27日〜4月7日事故防止策として耳付きヘルメットの着用を義務付ける。兄弟校対戦となった決勝は「ジャンボ仲根」の日大桜丘が初出場初優勝。
第45回大会1973(昭和48)年3月27日〜4月6日優勝した横浜の長崎が史上初のサヨナラ満塁本塁打。作新学院の江川は4試合で大会通算最多の60三振を奪った。
第46回大会1974(昭和49)年3月28日〜4月6日甲子園からわずか5キロしか離れていない報徳学園が「最短距離優勝」。部員11人の初陣・池田が「イレブン旋風」で準優勝。
第47回大会1975(昭和50)年3月28日〜4月6日金属バットが初登場して長打続出。過去最多の11本塁打が乱れ飛んだ大会は、高知が延長13回の決勝を制した。
第48回大会1976(昭和51)年3月27日〜4月6日初出場は史上最多タイの13校。ベスト4の3校を初陣が占め、そのうちの1校、崇徳が頂点に立った。広島県勢では45年ぶりの優勝。
第49回大会1977(昭和52)年3月27日〜4月7日決勝で箕島に敗れた中村は部員12人の「二十四の瞳」。準々決勝の中村-天理戦でセンバツ1000試合を記録。
第50回大会1978(昭和53)年3月27日〜4月5日前橋の松本が4回戦の比叡山戦で春夏を通じて初の完全試合を達成。浜松商が初優勝。福井商が北陸路に初めて準優勝旗をもたらした。
第51回大会1979(昭和54)年3月27日〜4月7日箕島が3回目の優勝。4番・北野は決勝で史上初のサイクル安打を達成。準々決勝では10犠打のチーム最多記録を樹立した。
第52回大会1980(昭和55)年3月27日〜4月6日大会開幕直前に佐伯達夫・前日本高校野球連盟会長が死去。決勝は5年ぶりの延長戦になり、延長10回、高知商がサヨナラ犠飛で初優勝。
第53回大会1981(昭和56)年3月27日〜4月8日PL学園が史上10回目の決勝サヨナラ試合で印旛を降す。1978年夏もサヨナラで優勝しており、「逆転のPL」の異名が定着。
第54回大会1982(昭和57)年3月26日〜4月5日PL学園が52年ぶり2回目の春2連覇。佐藤は決勝では史上初の先頭打者本塁打。中京が2回戦の大成戦で甲子園通算100勝を達成。
第55回大会1983(昭和58)年3月26日〜4月5日第10回大会以来の32校が出場。享栄の藤王が11打席連続出塁、8打数連続安打の大会記録。しかし、優勝は猛打の池田がさらった。
第56回大会1984(昭和59)年3月26日〜4月4日初出場16校のフレッシュ大会。決勝は岩倉がPL学園に競り勝ち、8年ぶり12校目の初出場初優勝。PL学園は甲子園20連勝でストップ。
第57回大会1985(昭和60)年3月28日〜4月7日雨で開幕を2日延期。伊野商が前回に続き初出場初優勝。安全性、耐久性に問題のある金属バットが出たため、「安全バット」のみを採用。
第58回大会1986(昭和61)年3月26日〜4月5日新湊が富山勢で初のベスト4入り。池田が3年ぶり2回目の優勝。岩崎良美さんが姉・宏美さんに続き、姉妹で入場行進曲に採用された。
第59回大会1987(昭和62)年3月26日〜4月4日PL学園が史上4回目の「2都決戦」に勝って3回目の優勝。夏も制して4回目の春夏制覇。八戸工大一が青森勢で18年ぶり甲子園勝利。
第60回大会1988(昭和63)年3月27日〜4月5日記念大会に史上最多の34校が参加。平均身長が最も低い初陣・宇和島東が強力打線でV。2勝した倉吉東など寒冷地域の検討が目立った。
第61回大会1989(平成元)年3月26日〜4月5日平成最初の試合。東邦が延長10回逆転サヨナラ勝ちで48年ぶり4回目のV。1回戦の近代付-宇都宮工戦が降雨で33年ぶりの再試合。
第62回大会1990(平成2)年3月26日〜4月4日約半数の15試合が1点差勝負。延長6試合、サヨナラ5試合など接戦が相次ぐ大会は近代付が大阪勢として3年ぶり7回目の優勝。
第63回大会1991(平成3)年3月26日〜4月5日大阪桐蔭の和田が仙台育英戦で史上10人目の無安打無得点試合。初陣の市川が史上初の2試合連続逆転サヨナラ勝ち。広陵が65年ぶりの優勝。
第64回大会1992(平成4)年3月27日〜4月6日ラッキーゾーンが撤去されて本塁打数は前年の半分以下に。そんな中で松井(星稜)が通算3本塁打の快挙。帝京が初優勝。
第65回大会1993(平成5)年3月26日〜4月5日知内が史上初の町立校として登場。計280得点は史上最多。上宮が大阪勢として8回目の頂点に。新大会歌「今ありて」誕生。
第66回大会1994(平成6)年3月26日〜4月4日金沢の中野が江の川を相手に史上2回目の完全試合達成。智弁和歌山が全試合継投で初優勝。複数投手制の重要さを象徴した。
第67回大会1995(平成7)年3月25日〜4月5日大会前に阪神大震災が起こり、復興に寄与するため会期が1日延長された。同じ四国勢の伊野商、宇和島東に続き観音寺中央が初出場初優勝。
第68回大会1996(平成8)年3月26日〜4月5日鹿児島に初の優勝旗がひるがえった。優勝投手の鹿児島実・下窪のほか、智弁和歌山・高塚、高陽東・宗政ら好投手の奮闘が目立った。
第69回大会1997(平成9)年3月26日〜4月9日天理が複数投手の利点を生かして初優勝。中京大中京は通算最多勝数の51勝をマーク。日高中津が分校として初の甲子園出場。
第70回大会1998(平成10)年3月25日〜4月8日記念大会に史上最多の36校が出場。松坂を擁した横浜が優勝し、夏も制して5校目の春夏制覇。甲子園58勝のPL学園・中村監督が勇退。
第71回大会1999(平成11)年3月25日〜4月4日沖縄尚学が春夏通じ、沖縄勢として初の全国制覇。延長戦が過去最多の7試合と好ゲームが続いた。大会通算打率も金属バット導入以降最高の2割7分5厘を記録。
第72回大会2000(平成12)年3月25日〜4月4日3回目の決勝進出で東海大相模が初優勝。2000年代初の王座に。準優勝の智弁和歌山はチーム大会通算最多塁打記録を達成する強打が光り、夏は全国制覇。
第73回大会2001(平成13)年3月25日〜4月4日21世紀枠が設けられ34校が出場。安積は敗れたが宜野座は4強。常総学院が初制覇し、仙台育英が東北勢初の決勝へ。関西創価も初出場で準決勝に進んだ。
第74回大会2002(平成14)年3月25日〜4月4日エース大谷が5試合すべてを完投した報徳学園が28年ぶりの頂点へ。2年目の「21世紀枠」で出場の鵡川も1勝。重量が制限された新基準バットが導入された。
第75回大会2003(平成15)年3月22日〜4月3日神宮大会枠、希望枠を新設。広陵が決勝の最多安打記録を塗り替えて優勝した。花咲徳栄-東洋大姫路は延長15回制となってから初の引き分け再試合。
第76回大会2004(平成16)年3月23日〜4月4日済美が最速の創部3年目で優勝した。上甲監督は宇和島東に続く初出場初優勝。東北のダルビッシュが熊本工戦で12人目の無安打無得点試合。
第77回大会2005(平成17)年3月22日〜4月3日前年準優勝の愛工大名電が機動力で初の頂点に。創部3年目の神村学園が準優勝した。21世紀枠の高松は史上最長となる72年ぶりの出場。
第78回大会2006(平成18)年3月23日〜4月4日横浜は決勝史上最多得点、最多得点差の記録を残し、3回目の優勝。初出場の清峰は有迫が準々決勝、準決勝を連続完封。
第79回大会2007(平成19)年3月23日〜4月3日低反発球が初めて導入されたが大阪桐蔭の中田は、佐野日大戦で2打席連続本塁打。2回目出場の常葉菊川が、希望枠で初出場した大垣日大を降し初優勝した。
第80回大会2008(平成20)年3月22日〜4月4日第71回大会(99年)に初優勝した当時のエース・比嘉公也監督率いる沖縄尚学が、エース東浜巨の活躍などで2度目の優勝。センバツ連覇を狙った常葉菊川は3回戦で敗れた。
第81回大会2009(平成21)年3月21日〜4月2日3年ぶり2回目出場の清峰が初出場の花巻東を破り初優勝。長崎県勢としても春夏通じ初の優勝。花巻東の北海道・東北勢で初の選抜優勝に期待がかかったが、紫紺の優勝旗は、またも「白河の関」を越えられなかった。
第82回大会2010(平成22)年3月21日〜4月3日大会屈指の左腕、島袋洋奨の好投と全5試合2けた安打の強力打線で、興南が春夏通じて初の栄冠。沖縄県勢としては1960年の那覇のセンバツ初出場からちょうど半世紀の節目で、第80回大会の沖縄尚学に続き2年ぶり3回目の全国制覇。
第83回大会2011(平成23)年3月23日〜4月3日開幕直前に東日本大震災が発生。開催の可否も検討されたが「がんばろう!日本」をスローガンに予定通り開幕。前年夏準優勝の東海大相模が、大会通算安打記録を塗り替えるなど強打で勝ち進み、11年ぶりに優勝。準優勝は福岡県勢として57年ぶりに決勝に進んだ九州国際大付。福岡県勢の春初優勝はならなかった。
第84回大会 2012(平成24)年3月21日〜4月4日選手層の厚さを示し、大阪桐蔭が頂点に立った。197センチの長身右腕・藤浪ら全国トップ級の選手がおり、個々の能力の高さは出場校中随一。主砲の田端が1回戦で右腕を骨折し、戦線を離脱したが、主砲の不在を感じさせないほどだった。春夏通じて東北勢初の甲子園優勝を目指した光星学院が前年夏に続く準優勝。
第85回大会 2013(平成25)年3月22日〜4月3日浦和学院が済美を17-1で破り、春夏通じて初優勝。序盤は、2年生エースによる投げ合いとなったが、浦和学院が集中打で逆転勝ちした。埼玉県勢がセンバツを制したのは2回目。済美はセンバツで初黒星を喫した。
第86回大会 2014(平成26)年3月21日〜4月2日共に初めて決勝に進んだ近畿勢同士の対戦は、春夏通算最多の出場70回を誇る龍谷大平安が4年連続6回目の出場を果たした履正社を6-2で降し、センバツ最多となる38回目の出場で初優勝した。
第87回大会 2015(平成27)年3月21日〜4月1日福井の敦賀気比が北海道の東海大四を3―1で破り、春夏通じて初優勝。北陸勢の優勝は春夏通じて初めて。北海道勢のセンバツ初優勝を目指した東海大四は及ばなかった。
第88回大会 2016(平成28)年3月20日~3月31日奈良の智弁学園が香川の高松商を延長十一回、2―1で降し春夏通して初の優勝を果たした。智弁のエース村上は、開会式直後の福井工大福井戦から全5試合を一人で投げ抜いた。